|
年表をまとめている時も思ったんですが、190〜192年の間の時系列は
非常に込み入っていて、わけがわかりません。
なのでもう一度、いくつかの区分に分けつつ、一部をより詳細にまとめてみました。
(1)
190年1月、関東軍結成→許臨死亡→関東軍、酸棗に駐留
→司馬懿、洛陽に残兵を派遣
→洛陽炎上→曹操追撃→孫堅消火開始→曹操敗走→
→消火開始から3日後、孫堅鎮火完了し、玉璽発見
→荀ケ酸棗を訪問→孫堅追撃→1月18日、荀ケ、袁紹の招聘を断る
(2)
→その2ヵ月後、酸棗の兵糧が尽き、諸侯が陣を解き四散する
→諸侯ら、難民に施しをする&荀ケ、敗走した曹操を出迎える
(3)
→呂布ら、虎牢関の守りに就く→関東軍、虎牢関前に陣取る
→関東軍、少し退いて陣内に引き篭る
→3日後、華雄死亡し、呂布退く。(呂布が虎牢関の守りに就いた7日後)
(4)
→反董卓同盟消滅
→191年、董卓が暗殺される
→その直後、牛輔が仇討ちの兵を起こす。
→馬騰・韓遂ら、長安へ進軍
→馬超、刀皇の軍を壊滅させる(この時点で同盟消滅から2ヵ月経過)
(5)
→牛輔軍VS李粛軍→5日後、李粛死亡
→5日後、呂布敗北
→192年4月、賈詡が長安に入城する。
孫堅の董卓軍追撃について。
まず(1)での孫堅の行動について。
「洛陽での消火活動と、董卓軍追撃は別々に行われたのか?」
という点が問題です。この辺りははっきりと描かれていないので、
追撃中に洛陽に立ち寄ったようにも読み取れます。
これを読み解く手がかりになるセリフがあります。
孫堅が洛陽を鎮火した後に袁術から董卓追討の命令が下されており、
その際に程普が、
「補給もしてないのに、なぜ我々が?」と言っています。
『演義』でも孫堅軍は補給無しで戦闘していますので、『火鳳』でも
同じ状況で戦闘した可能性は高い。
というわけで私は、孫堅は消火活動した後、更に追撃をしたと考えました。
荀ケが酸棗を訪れた際の出兵=洛陽での消火活動だった可能性も
無いわけではありませんが、その可能性は低いでしょう。
孫堅は洛陽を鎮火した直後に袁紹の無事を知りました。
そして第42回において孫堅が単独での追撃を慣行したのは、
袁紹たちが宴会をして動こうとしなかったからです。
もしこのとき孫堅が袁紹の安否を知らなかったら不自然になります。
結論
関東軍での孫堅は、
「洛陽鎮火→袁紹の無事を確認→袁紹が連日宴を開く
→諸侯に付き合いきれず、追撃のため出兵した」
このように動いたと考えるのが妥当。
曹操の董卓軍追撃について。
上の孫堅に引き続き、今度は曹操の追撃について。問題は(2)の赤い部分です。
時系列がこれで正しいなら、曹操が敗走してから酸棗に戻るまでに
2ヶ月もかかっている事になります。これは明らかにおかしい。
しかし、赤い部分を前後させることはできません。
(酸棗の陣が取っ払われている最中に、荀ケが曹操を出迎えているし、
文醜の怪我の描写等から、これは明らかに虎牢関の戦い以前に起こっている)
これを無理に解釈すると、曹操は洛陽炎上の直後にまず一度目の追撃を行い敗れ、
それから再度追撃し敗れた。荀ケは、その二度目の敗走を出迎えたのではないかと。
・・・でも間に2ヶ月もあったら、董卓軍は長安への遷都をとっくに完了してますね。
曹操が単独で、何倍もの兵力を持つ敵の本拠地へ攻め込むはずがありません。
結論
曹操軍は敗走後、2ヶ月間さまよい続けた。
虎牢関の戦いが起こったのは何月か?
(3)の流れ自体は特に問題ありませんが、(3)――つまり
"虎牢関の戦い"があったのは、190年の何月なのか?
董卓が死んだのは191年。そして董卓が死んだ後に袁紹が、
「2ヶ月前、我々はちょうど董卓と対峙していた」と言っているので、(第77回参照)
董卓が死んだのが191年の1月としても同盟の消滅、つまり
虎牢関の戦いの開始〜終了は、10〜12月。
(それに加えて、虎牢関の戦いが行われた期間は1週間程度)
諸侯たちが酸棗で陣払いしたのが3〜4月なので、それまでの半年間は
領地で力を蓄え、その後再度集結し虎牢関へ向かったのでしょうか?
しかし袁方閣下が、酸棗で難民に施しをする自軍を見て、
「遅かったか!なにやってんだてめーら!」と、のたまっておいでなので、
兵糧に余裕の有る諸侯は、陣払いしてすぐに虎牢関へ向かったようにも見えます。
ですがそれでは、虎牢関の戦いが190年3〜5月となり、同盟消滅の半年前に
起きたことになります。あの後、諸侯たちが半年もの間、同盟を維持できたのかと。
特に袁紹なんて、虎牢関で真っ先に諸侯を見捨てておいて、いけしゃあしゃあと
上記のセリフを言えるとも思えないので、こちらの可能性は低い。
結論
虎牢関の戦いは190年の年の瀬に起きた。
牛輔が軍を起こした時期について。
そして(4)・(5)。
刀皇の軍が馬超に討たれた後に、袁紹の上記のセリフが有るので、
"反董卓同盟消滅"から"刀皇の軍の壊滅"が2ヶ月の間に起こった事になります。
という事は、牛輔は董卓が死んだ直後、遅くとも2ヶ月以内には軍を起こした事になります。
しかし191年1〜3月(刀皇の軍の壊滅)から、
192年4月(賈詡の長安入城)までの間に起こったことと言えば、
"一割の兵で5日以内に"x2くらいです。
一体、牛輔軍は1年以上もの間、何をやっていたのか?
兵を集めるのに、そんなに時間がかかったわけでもありませんし
(というか、集め終わってから数えて一年以上経っている)、一体何をしていたのやら。
兵を動かさない牛輔に対して、李[イ寉]たちが怒るのも頷けるというものです。
結論
牛輔は董卓死後すぐに軍を起こしたが、それから1年以上何もしなかった。
ここまで書いて、ふと思いました。
原文の"両個月"の訳は"2ヶ月"で合っているのか?と。
で、"両"を中国語辞典で引いてみたところ、"2"の意味の他に、
「不定数を表す。通常は2〜3を表すが、漠然とした不定数量ということもあり、
この場合には"几"に置きかえても意味に変わりがない」
ウボァー!!なんてこった!初歩的な誤訳じゃねーか!!
確かに、"2ヶ月"を"数ヶ月"に置き換えた方がしっくりくる・・・。
と言うわけで、
「上で出した結論の多くは間違っている可能性が高い!」
という結論が出ました。いい加減でスマソ。
|